昭和47年12月24日 特別奉修委員



 御祈念の前にあの、福岡の川上さんが、お届けをなさいました。お花のお友達の方で、自分では癌ではなかろうかと、心配しておられる病気を持っておられる。そいで合楽のことを話されて私はその神様を信ずるから、お願いしてくれとこう言われる。昨日お届けをさせて頂きましたらね、伏して願えとい言う事を頂いた。伏してひれ伏してと言う事ね、あの是はもう信心のね、ほんとに一つの要諦です秘けつです。
 あの信じております分かっておりますお願いしとります。してひれ伏させておるのは、頼んどる人だけがひれ伏しとるのであって、本人はだから信じておるだけではいけない。やはり参って込んでも、なら金光様とこうひれ伏してうちで拝む気になったら、おかげになると思う。これはあの私何回もたいけんした事ですけども、ちょっとそこから、神様へこのお礼を申し上げる。
 あらこげんな簡単な事じゃと思うてから、またその改まって頭を下げたとたんですね、お知らせを頂いたり、おいさみを頂いたりするのは。ですからあの如何にこの改まった例えばあの、信心には所謂この御祈念と言った様、あのものが大事かと言う事が分かりますですね。特別奉修委員の皆さんの場合なんか、だから是はならだれでも、私の事を祈ったり願ったり教会の事を願って下さっておると思うんですけれど事改めて。
 ひれ伏して願われると言う事が私はおかげだと思うですね。ですからあのひれ伏して願うと言う所のね、あの是は私もその訳は分からんのです。こげんしてお願いしますというたっちゃ、聞いて下さっとるし。頭下げたっちゃ聞いて下さっておるのですけれども、あのおかげになるというのは、やはりひれ伏したほうで、に、おかげは頂けるということですね。あの結局、実意丁寧神信心と言われる。
 金光様の御信心は、もうほんとに、あの、そこのところをね、慎んだ気持ちで、おかげを頂かなければならないと思うですね。お願いしといてくれ、ハイそれでもおかげになるけれども、お願いしといてくれ、なら頼まれた人だけが、ひれ伏しておるだけじゃいかん。お願いしてくれという頼んだ人も、ひれ伏すことによって、心配はいらん、おかげになると神様が仰るのですからね。ひれ伏して願えと言う、
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